台所でコップに水を注ぎながら、ふと思った。
「昔の人って…井戸の水、そのまま飲んでいたんだよな?」
そして次の瞬間、頭に浮かぶのは――
ボウフラ、うにょうにょ。
「いやいやいや…無理でしょそれ!!」
思わずコップを持つ手が止まる。
でも調べてみると、昔の井戸は深くて、暗くて、きちんと蓋もされていた。
つまりボウフラ的には、
「ここ、立ち入り禁止エリアです」
という場所だったらしい。
なるほど、ボウフラにも出店ルールがあるのかもしれない。
…と、ここまでは少し安心した話。
しかし、ふと世界に目を向ける。
遠くの国では、今も水を汲みに行く生活がある。
その水は、必ずしも透明とは限らない。
むしろ、
「これは…少し勇気がいるな」
と思うような水もある。
もちろん、好きでそんな水を飲んでいるわけではない。
選べないのだ。
蛇口をひねれば安全な水が出る、
そんな環境そのものが存在しない場所もある。
ここで、はっとする。
さっきまで自分が考えていたのは、
「ボウフラがいたらどうしよう」
という話だった。
でも本当に怖いのは、そこではない。
見た目に何もいなくても、
目に見えない菌やウイルスがいる水のほうが、
はるかに危険なのだ。
つまり――
問題は「ボウフラがいるかどうか」ではなく、
その水が安全に管理されているかどうか。
これがすべて。
日本では、水は当たり前に安全だ。
透明で、無臭で、安心して飲める。
けれどそれは、自然にそうなっているわけではない。
誰かが管理し、守り、基準を作り、
徹底しているからこそ成り立っている。
そして、これはそのまま食の世界にもつながる。
お弁当も同じだ。
見た目がきれいでも、
手間を省けば、どこかでリスクは生まれる。
逆に、見えない部分にどれだけ気を配れるかで、
本当の価値が決まる。
毎日きちんと火を通すこと。
清潔な環境を保つこと。
無駄に見える手間を省かないこと。
清潔な環境を保つこと。
無駄に見える手間を省かないこと。
そういう積み重ねが、
「安心して食べられる」
という当たり前を支えている。
コップの水を一口飲む。
何も考えずに飲めること。
それ自体が、実はとても特別なことなのかもしれない。
ボウフラの心配をする前に、
まずこの水の安全に感謝しよう。
まずこの水の安全に感謝しよう。
そして同じように、
誰かの口に入るものを作る立場として、
「見えない衛生」に責任を持ち続けたい。
今日も、水がうまい。
そして、安心して食べられることに、感謝。
