イビキすらも愛おしい夜 〜『風立ちぬ』と、妻の寝息〜

堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだ。 それは、命の終わりを見つめる物語であり、 静かに人を愛するということを教えてくれる作品だった。

結核に冒された婚約者・節子との日々を描いたこの小説は、

 

 死を目前にした静かなサナトリウムの風景と、

それでも生きようとする“こころ”が繊細に描かれている。

ラスト、主人公が見た“幸福の谷”―― それは、かつて二人で見た光景だったが、

愛する人を失ったあとに再びそれを“幸福”と呼ぶまでの時間と想いに、 僕はただ、深く胸を打たれた。

この物語を読み終えた深夜、僕はしんみりと「人は、愛する人を失っても、なおその人と共に生きていけるのかもしれない」

そんな文学的感慨に浸っていた――

 

――が、その瞬間

 

「グオォ……ブフゥ…ッ!」

 

隣でひときわ豪快な寝息を響かせる妻。

そのサウンドは、もはや“寝息”ではなく、野生だった。

一瞬で、僕の“文学的余韻”は打ち砕かれ、 現実という名の目覚ましが、妻の喉から鳴り響いていた。

だが、僕はふと気づく。

この音が、たまらなく…愛おしいのだ。

昨夜の夕食は、 久々のインスタント麺を二人前(強めの塩味)

味が濃すぎて途中でリタイアした昨日の野菜炒めの残り

 

そしてなぜか

 

その濃さを中和するかのごとくテーブルのど真ん中に置かれたどでかいプリン。

なぜどでかいプリンなのか。 なぜ夜メニューに。

誰が置いたのか。

 

 誰も語らない。

 

 そう、それが夫婦のミステリー。

 

だが僕は思う。 こんな食事風景こそが、“幸福の谷”なのだと。

 

文学が描く静寂と死の気配も美しい。 だが、爆音のいびきと、どでかいプリンのある夕食もまた、たしかに美しい。

 

 それは、生きている者だけが味わえる、混沌とした愛おしさだ。

 

今日も花むらのお弁当が( 誰かのプリンみたいに)貴方の幸せにそっと寄り添えますように。