なぜ人は写真を撮るとき、指を二本立てるのか?

友人のラインのプロフ写真を見て、ふと・・・いや、以前から不思議に思っていることがある。

なぜ人は、写真を撮られるときに指を二本立てるのだろうか。

いわゆるピースサイン。

別に勝利したわけでもない。平和を訴えているわけでもない。なのに、カメラを向けられると、とりあえずピース。

しかも、みんな実に自然にやっている。

あれはいったい誰が始めたのだろう。

調べてみると、もともとは第二次世界大戦中に広まった「Vサイン」が起源らしい。VはVictory、つまり勝利である。

それが後に反戦運動などを通じて平和の意味を持つようになり、日本では1970年代にテレビCMなどをきっかけとして写真撮影の定番ポーズになったという。

あ~~なるほど。

戦争に勝つためのサインが、平和を願うサインになり、いつの間にか記念写真で指を立てる習慣になったわけ。

歴史というのは実に不思議なものです。

もっとも、現代の日本人が写真を撮られる際に、第二次世界大戦やベトナム戦争に思いを馳せているとは到底思えない。

たぶん、何も考えていない。

「はい、チーズ!」

「イエーイ! ピース!」

である。

人類の歴史というものは、最終的にこういうところへ行き着くのかもしれませんね。

さて、そんなことを考えている僕だが、そもそも写真に写ることが好きではないのだ。

というより、できるだけ写らないようにしている。

なぜか?

自分という人間の記録が残ることが、どうにも嫌。

写真というのは、あまりにも生々しい。

例えば、今は亡き家族の写真。

そこには、元気だった頃の姿が残っている。

笑っている。楽しそうにしている。まるで昨日のことのように。

でも、もうその人はいない。

写真の中では今も笑っているのに、現実にはもう二度と会えない。

それが、たまらなく切なくなることがあります。

考えてみれば、僕自身だってそうだ。

一分一秒たりとも、同じ姿ではいられない。

街だってそうだ。

昨日まであった建物がなくなり、見慣れた風景が変わっていく。人も街も、すべてが少しずつ姿を変え続けている。

時間というものは、決して立ち止まってくれない。

ところが写真だけは違う。

何十年経っても、そこに写っている人は同じ顔で笑っている。

写真は時間を止めるものだという。

だが、僕にはむしろ、時間が決して止まらないことを突きつけてくるもののように思えてしょうがない。

だから、あまり好きではないのだろう。

では、文章はどうなのか。

実は僕は、こうして文章を書くことが好き。

考えてみれば、これだって自分の記録を残していることに違いはない。

矛盾しているではないか。

しかし、僕の中では少し違う。

写真は、その瞬間の自分を容赦なく閉じ込めてしまう。

一方、文章は、そのときの考えや気持ちを残すことができる。

そして何より、文章は自分の意思で書き直せる。消すこともできる。

自分が許す限り、その考えを同じ状態で保っておくことができる。

写真に写った僕は、もうどうすることもできない。

しかし、文章の中の僕は、まだ僕自身の手の中にある。

そういう違いなのかもしれない。

もちろん、写真を残すことが悪いと言っているわけではない。

大切な人との思い出を写真に残し、いつまでも大事にしている人もいるだろう。

それはそれで素晴らしいことだと思う。

ただ、僕は写真よりも、心の中に残っている風景の方を大切にしたい。

もっとも、人間の記憶というやつも実にいい加減なもので、都合の悪いことは忘れるし、昔の自分を必要以上に美化したりもする。

その点、写真は容赦がない。

腹が出ていれば、出ている。

髪が薄くなっていれば、薄くなっている。

実に失礼な記録媒体である。

そんなわけで、僕はこれからも写真にはできるだけ写らず、文章だけを残していこうと思っている。

ただし、文章にも恐ろしい欠点がある。

何年か後に昔の自分が書いたものを読み返して、

「おいおい、何を偉そうに語っとるんや、この上から男は」

となる可能性が十分にあることだ。

そのときは、遠慮なく削除することにしよう。

写真と違って、それができる。

……実に都合のいい話ですな。