米不足になって良かったこと

去年辺りから 米が高い 米が足りない

 そんな声があちこちから聞こえるようになった。

僕自身、食の商売に携わる者として、ここ最近のあまりに急激な米の高騰に、焦り、不安、不満といった負の感情に囚われていた時期があった。

「またか…」

「なんでこんなに…」そんな気持ちばかりが先に立ち、気づけば、大切な視点がすっぽり抜け落ちていた。

でも、僕はふと思ったんだ。 「これは、大切なものに気づくチャンスなんじゃないか」って。

かつて米は、税であり、祈りであり、命だった。

茶碗の米粒ひとつを残すと、親に怒られた。

それは叱りじゃなく、感謝の心を教えるためだったと思う。

だけど今では、炊きすぎたごはんを平気で捨てる人もいれば、 商売のために作った節分の太巻きが、丸ごとゴミ袋へ消えていく。

そんな時代に、「米が足りない」という現象が起きた。

 それはまるで、大地や祖先、目に見えぬ存在からの警鐘のようにも感じる

(決して僕は宗教にはまってるわけじゃない。けれど、そう思いたくなるほどに)

うんざりするほどニュースで繰り返される、『備蓄米放出の遅れや』『誰かの責任』を追求したところで意味はない。

 そもそも僕たち自身がまず、「お米」や「食べ物」そのものへの気持ちを改めないと、何も変わらないと思う。

最近では、「いただきます」「ごちそうさま」を言うことに異論を唱える人まで出てきたという。

「お金を払っているのに いただきます なんておかしい」

「強制するのは教育的に不適切だ」と。

でも、どうだろう。 僕たちは自然の恵みと、誰かの手間と想いの上に食べている。

 それを「当たり前」にしてはいけないと思う。

僕は今、商売をさせていただく身として、 もう一度、米という存在に、そしてあらゆる食物に思いを馳せたい。

茶碗一杯の白ごはんに、自然と手を合わせる日々が戻ってきた。 そして、心から思う。

ピンチじゃない。 これは「思い出す」チャンスだ。

「米のありがたみ」を、 「命のつながり」を、 「いただく」という意味を――

忘れたふりをしていた、僕たち全員が。 今、少しずつ思い出しはじめているのかもしれない。