名作文学 こころ と明治の食卓

今日、夏目漱石の『こころ』を読み終えました。

先生という人物は、わかるようで、わからない。

 自分を責めて、後悔を引きずり、 人に言えないことを胸に抱えたまま、 静かに、でも確かに、自らを消すように生きていた。

読んでいるうちに、 「ああ、これ、自分にもあるな」と思いました。

 

僕にも、人に言えず、 言おうとしても伝える勇気がなく、 そのまま相手を傷つけてしまったことがある。

 

そして、それを長く引きずり、 「自分なんて価値がない」と思ってしまったこともある。

——そうやって自分と先生を重ねながら読んでいたけれど、 ふと気づいたんです。

 

もしかしたら、誰しも「先生のこころ」に通ずる一片を持っているんじゃないか。

 

 それが大小に関わらず、人は皆、後悔と、語られなかった思いを抱えて生きているのかもしれない。

 

この小説には、ほとんど具体的な食事の描写は出てきません。 でも、読後に不思議と気になってしまいました。

 

——「先生達は、どんなものを食べていたんだろう?」

これはもう、弁当屋のサガですね(笑)

 

『こころ』の舞台となった明治の終わりから大正のはじめ、 一般家庭の食卓は、今のように多彩ではありません。

白米(もしくは麦ご飯)

焼き魚(鯖や鮭)

味噌汁(豆腐やわかめ)

根菜の煮物

漬物や昆布の佃煮

 

甘味は、干し柿や羊羹がささやかなお楽しみ

手間ひまかけた、質素で静かな一汁三菜。 そこには、派手さのない、

 

だけど人を支える“日々のあたたかさ”があったように思います。

 

花むらがつくるお弁当も、 そんな「心の静けさ」に寄り添うような存在でありたいなと思いました。

 

言えなかった「ありがとう」や、 届かなかった「ごめんね」も、 もしかしたら、今日のお弁当の中にそっと込められているかもしれません。