お弁当屋をやめたい・・・・いや、飲食の仕事そのものから離れたいと、少なからず思う瞬間がある。
それは、売上が悪かった日でもない。
忙しすぎて身体がしんどい日でもない。
やむを得ず、食材やお弁当を捨てなければならない時だ。
もちろん商売だから、ある程度の廃棄は避けられない。
足りなければ「売り切れ」。
作りすぎれば「廃棄」。
毎日ぴったり売り切るなんて、現実にはほとんど不可能だ。
衛生上、翌日に回せないお弁当。
品質を守るためには、まだ食べられそうに見えても捨てなければならないこともある。
頭では分かっている。
それでも、廃棄がでると、時々ものすごく嫌になる。
「俺、何やってるんやろな」
と思うことがある。
社会に不満がないわけでもない。
物価は上がる。
人件費も上がる。
将来への不安もある。
「日本も大変な時代になったなあ」
そんなことを、僕も普通に考える。
ところが今日、
「昼、何食べようかな」
と考えていた。
コンビニにしようか。
蕎麦もいいなあ。
いや、ラーメンも捨てがたい。
そこまで考えて、ふと気づいた。
僕はいま、“食べるものを選んで悩んでいる”。
これは当たり前のようで、決して当たり前ではない。
世界には今も、
「何を食べようか」
ではなく、
「今日、食べられるだろうか」
というところから一日が始まる人が大勢いる。
そう考えると、「飽食の時代」という言葉が急に重く感じる。
僕らは豊かになった。
スーパーへ行けば食べ物が並び、コンビニは24時間開いている。
数百円を出せば、いくつもの料理から好きなものを選べる。
そして僕ら飲食店は、
「今日は唐揚げにしますか」
「生姜焼きにしますか」
「ちょっと贅沢して850円のお弁当にしますか」
と、その選択肢をさらに増やしている。
これはすごく幸せな仕事なのだと思う。
でも同時に、怖い仕事でもある。
食べ物を扱うということは、単なる「商品」を扱っているわけではない。
誰かが育てた米。
誰かが育てた野菜。
誰かが育てた牛や豚や鶏。
誰かが獲った魚。
そこに運ぶ人がいて、加工する人がいて、料理する人がいる。
その最後に僕らがいて、
それを「売れなかったから」と捨てることがある。
もちろん、それだけを責めても商売は成り立たない。
廃棄ゼロを目指して作る数を減らしすぎれば、今度は昼12時に商品がなくなって、お客様に迷惑をかける。
だから食品ロスという問題は、実際に飲食をやってみると、そんな単純な話ではない。
それでも。
仕方がないから捨てる。
仕方がないから、何も感じなくなる。
そこまで行ってはいけない気がする。
捨てなければならない時には、せめて「もったいない」と思える自分でいたい。
そして翌日は、一個でも廃棄を減らす工夫をする。
発注を見直す。
製造数を見直す。
予約を増やす。
売れ残りそうなら早めに判断する。
たぶん飲食に関わるということは、
食べ物を売る責任と同時に、食べ物を粗末にしない責任を背負うことなんだと思う。
「今日何食べようかな」
そうやって悩める僕らは、思っている以上に豊かな場所にいる。
その豊かさに慣れすぎて、食べ物があることそのものへの感覚を失わないようにしたい。
僕は明日もたぶん、
「今日の幕の内弁当、何個作ろう」
と悩む。
多ければ余る。
少なければ足りない。
答えなんて毎日違う。
それでも、廃棄されるお弁当を一個でも減らそうと悩み続けること。
それもまた、弁当屋の仕事なんじゃないかと思う。
そしてもしかすると
「飽食の時代」というのは、食べ物が余っている時代のことではなく、
食べ物があることへの感謝を、忘れそうになる時代のことなのかもしれない。
