人類は、小さな長方形の箱に夢中である。

先日、久しぶりに大阪までの電車に乗りました。

そして、思わず笑ってしまいました。

乗客が、みんなスマホをいじっているのです。

右を見てもスマホ。左を見てもスマホ。向かいの席もスマホ。

みんな少しうつむいて、手のひらに収まる小さな長方形の箱を見つめている。

いやあ、なんとも不思議な光景です(笑)。

考えてみれば、この小さな長方形の箱は、まさしく魔法の箱なのです。

世界中のニュースが読める。好きな音楽が聴ける。映画も観られる。本も読める。友達と話せる。買い物もできる。知らない場所へ行くときには道案内までしてくれる。

おまけに最近では、人工知能まで住み着いている(笑)。

かつて人間が夢見た便利な道具の数々が、たった一枚の薄っぺらい板の中に収まっているのです。

これは本当にすごいことです。

もし100年前の人間がこの光景を見たら、どう思うでしょう。

魔法か。未来か。

あるいは、人類が何かの呪いにかかっていると思うかもしれません(笑)。

ただ、車内を見渡しているうちに、僕は少し奇妙な気分になりました。

これだけ大勢の人間がいるのに、みんなが同じ姿勢で、同じように小さな画面を見つめている。

もちろん、画面の中で見ているものは、それぞれ違うのでしょう。

ニュースを読んでいる人。ゲームをしている人。恋人とメッセージを交わしている人。仕事の連絡をしている人。

みんな同じことをしているようで、実はまったく違う世界にいるわけです。

同じ電車に乗って、同じ方向へ移動しているのに、意識だけはそれぞれ別の世界へ旅立っている。

……ちょっと怖くないですか、これ(笑)。

いや、僕が悪く考えすぎなのかもしれません。

そもそも僕自身、スマホもAIも大好きな人間です。

今さらスマホのない生活に戻れと言われたら、断固拒否するでしょう。

それでも、ふと思うのです。

昔、電車の中で僕らは何をしていたのだろう。

窓の外を眺めていた。

次々と流れていく家並み。踏切で待つ人。洗濯物の揺れるベランダ。夕暮れの商店街。駅のホームで誰かを待っている人。

そこには、知らない人たちの知らない人生がありました。

「あの人はこれからどこへ行くんやろ」

「あの家にはどんな人が住んでいるんやろ」

そんな、答えの出ない想像をする時間があったように思います。

もちろん、昔の乗客がみんな窓の外を眺めていたわけではありません。

新聞を読む人もいた。本を読む人もいた。居眠りする人もいた。

ただ、今と少し違うのは、「何もすることがない時間」がもっと普通に存在していたことかもしれません。

何もすることがない。

だから、窓の外を見る。

だから、考える。

だから、ぼんやりする。

今は、その「何もすることがない時間」を、スマホが見事に埋めてくれます。

退屈しなくなった。

これは素晴らしいことです。

でも、退屈というものは、本当に全部なくしてしまっていいものなのでしょうか。

何も考えずに眺めていた景色から、突然おもしろいことを思いついたり。

見知らぬ人の何気ない仕草から、その人の人生を勝手に想像してみたり。

そんな、一見無駄に思える時間にも、何かしらの価値があったのではないかと思うのです。

便利になるということは、無駄をなくすことでもあります。

しかし、人生のおもしろさというものは、案外その無駄の中に隠れているのかもしれません。

僕は別に、電車の中でスマホを見るなと言いたいわけではありません。

そんなことを言えば、真っ先に自分が困ります(笑)。

ただ、たまには顔を上げて、窓の外を眺めてみるのもいいんじゃないでしょうか。

手のひらの小さな長方形には、世界中の情報が詰まっています。

でも、窓の向こうにもまた、僕の知らない世界が果てしなく広がっているのです。

しかも、こちらは充電も通信料も必要ありません。

……などと考えながら、気がつけば僕もスマホを取り出していました。

人類とは、実に業の深い生き物であります(笑)。